購入価格 ¥798(上巻・下巻とも)
原題は"Zen and the Art of Motorcycle Maintenance"。著者はロバート・M・パーシグ(Robert M. Pirsig)。私が大学生だった頃はまだ翻訳が出ておらず、ピンク色のカバーのペーパーバックだった。ただでさえ難解な内容なのに、英語だったので苦労して読んだ記憶がある。その後、ハードカバーの翻訳書が出たが、絶版になり、現在はハヤカワ文庫から上下巻の二冊組で出ている。個人的に、とても読みやすい翻訳で好感が持てた。
この本は一種の「哲学小説」で、出版は1974年。全世界でベストセラーになったと言われている。ところで、なぜこの「禅とオートバイ修理技術」というタイトルの小説のレビューをこのサイトに投稿するかというと、次の二つの理由による。
1. 本書のオートバイ関連の記述を脳内ですべて自転車関連のものに適宜置き換えてやると、オートバイの知識がなくとも読める
2. この本のタイトルをもじって、アメリカの自転車メカニック、レナード・ジン(Lennard Zinn)が自転車のメンテナンス本をいくつか書き、ベストセラーになっている(" ZINN AND THE ART OF ROADBIKE MAINTENANCE" - 「禅とロードバイク修理技術」や"ZINN AND THE ART OF MOUNTAIN BIKE MAINTENANCE" - 「禅とマウンテンバイク修理技術」など)。
つまり、この本にとってオートバイというのは舞台道具の一つにすぎない。本当に扱われているのは、たとえばオートバイのエンジンに代表されるようなテクノロジーとその総体、仕組み、そして、それに向きあう「心のありかた」である。本書はオートバイの修理技術を扱った専門的なハウツー本の類いでは全くない。また、禅仏教を解説した本でもない。作者も序文でそのように断っている。
登場人物は、オートバイでアメリカ大陸をツーリング中の主人公と息子、主人公の友人のジョンとシルビアという夫婦、そして「パイドロス」と呼ばれる人物。基本的に登場するのはこれだけで、通常の物語がそうであるような起承転結の構造はない。筋のある小説だと思って読むと痛い目にあうので、注意されたい。これは筋を楽しむ本ではない。
この小説は、簡単に言ってしまうと、たとえば「自転車に乗るのは何て楽しいんだろう、気持ちがいいんだろう。自転車に乗りたい!」というマインドと、「自転車という機械の総体・システムに向いあい、分析する」マインドの対立を扱っている(この本では、もちろん自転車のかわりにオートバイが登場する)。
たとえば、作中に登場する「ジョン」という男は、オートバイのメンテナンスが大嫌いで、ツーリングの途中、バーなどで主人公がバイクメンテナンスの話をはじめると、話を逸らしたり、無言になってしまい、話題を変えてしまう。ジョンだけでなく、ジョンの妻シルビアにも同様の傾向があり、そのことについて主人公は次のように語っている。
「そもそも彼らがオートバイに乗り始めた動機というのも、新鮮な空気と陽光に満ち溢れた田舎へ出かけてゆくことによって、テクノロジーから逃れることであった。ようやく逃げのびたと思っているそのときに、再びそのテクノロジーを持ち出されることは、二人にとってひどく意気をくじかれることになるのだ。だからテクノロジーに関する話になると、いつも会話が途切れて、冷たい空気に包まれることになるのだ。・・・(中略)・・・彼らが避けているのは、ひょっとしたらテクノロジーよりももっと不可解なものなのではないかとさえ思えた。だがいまは、その「それ」が、全部とは言えないまでも、大部分はテクノロジーを意味しているということが分かっている。だが実際はそれでも不十分かもしれない。明確には定義しがたいが、テクノロジーを生み出すある種の力、いわば非人間的なもの、機械的なもの、生命を持たないもの、目に見えないモンスター、死の力、といったものがその正体であろう」
このジョンという男は、熱さでエンジンがダメになってしまっているのに、エンジンを調べてみようとはせず、ただひたすらキックペダルを踏み続ける。エンジンを調べることが面倒臭い、というか、彼はそうしたことをするのを恐れているようなのである。自分でもそれが愚かなことであるとわかっているのに、故障の原因を詳しく考えることを避け、ひたすら体重をかけてペダルを踏むだけなのだ。「ちくしょう!」と言いながら。
あなたは上記のような行動に心当たりがないだろうか。そういうタイプの人を見かけたり、あるいはあなた自身がそういう人である可能性はないだろうか。私は、恥ずかしながら、ジョンの気持ちがとてもよくわかる。以前、炎天下の日にチェーンが落ちてしまった時、いくら掛けなおそうと思ってもチェーンがリングに乗ってくれない。チェーンがFDとフレームのあいだで、ジャムって動かなくなってしまっている。冷静に考えれば、ミッシングリンクを外して、チェーンを外し、掛けなおせばいいだけなのに、「チェーンがジャムっている」という事実を受け入れることを意識が拒み、ただひたすらクランクを回してチェーンを乗せようとしていた。チェーンがひっかかっていて、動くわけがないのに、である。あの時、私は何かを拒否していたのが自分でよくわかる。冷静に観察し、何がおかしいのかを分析し、対処する、という気持ちが持てなくなっていた。
あの時の私が拒否していたのは、「テクノロジー」や「テクノロジーを生み出すある種の力、いわば非人間的なもの、機械的なもの、生命を持たないもの、目に見えないモンスター、死の力、といったもの」に向かい合う姿勢だったのだと思う。システム、という言葉でも良い。私が自転車に乗っていたのは、そうしたモンスター、死の力、システムから遠く離れて、自由になるためだった。しかし、チェーンが外れた途端、私は自分が逃げて来たものに無理矢理直面させられたのだった。
先に述べた「自転車に乗るのは何て楽しいんだろう、気持ちがいいんだろう。自転車に乗りたい!」というマインドと、「自転車という機械の総体、システムに向かいあい、分析する」マインドは、本書ではそれぞれ「ロマン的精神」と「古典的精神」と呼ばれている。これは、感情と官能性を中心とするロマンティスムと、分析と理解を重んずる理知的な精神、と置き換えても良いだろう。この奇妙な哲学小説で扱われている唯一といっても良いテーマが、この対立である。
その対立が本書の中でどのように記述され、「物語」がどのような結末を辿るのか、主人公がどのような運命を辿るのかは、興味がある方にはぜひ読んで自分で確かめていただきたいと思う。古代ギリシャ哲学に関する言及が非常に多いので、簡単に読める本ではないし、誰にでもすすめられる本では絶対にないのだが、この本を理解するためには哲学の知識は必要不可欠ではない、とだけ書いておきたい。むしろ、「自転車に乗るのは、なんて気持ちがいいんだろう!」と感じていながら、同時に、「自転車の仕組みはなんて複雑なんだろう。メンテナンスはなんだか難しそうで苦手だ。スプロケットなんて黒くて汚らしいただのギザギザで、触りたくもない」と思いつつも、「でも、両方を楽しむことはできないだろうか。そのほうが実は、人生は楽しいのではないか。全てをショップに任せて、自分は乗るだけ、というのは、何か大切な部分を見過ごしていることにはならないか」とたまに考えることがあるような人なら、ゆっくり読み進めれば理解できると思う。
メンテナンスを愛するサイクリストだけでなく、メカが苦手なのはなぜだろうと思っている人、故障したオートバイのペダルをただひたすら愚直にキックしつづけているような、民主党の現党首等々、多くの方に読んでいただきたい一冊。
価格評価→★★★★★
評 価→★★★★★